歴史 History
私の父である先代・谷端敏夫(2006年3月逝去 享年73歳)が、組子の道に入ったのは23歳のとき(1956年)でした。
父が富山市の狩野木工所で建具見習いをしていた時期、当時の親方から「お前は細工仕事が向いている。その性格を生かさないともったいない」というアドバイスを受け、5年間勤め上げた後、埼玉県浦和市にある建具工芸研究所へ弟子入りしました。
当時、組子職人になるには中学を出てすぐ修行を始めるのが一般的な時代。20歳半ばからの遅いスタートとなった父は、のちに話していたように「組子づくりに全身全霊を注いだ」という努力を積み重ねました。そして、1959年、富山へ帰郷後の26 歳で「谷端組子店」を開業しました。
当時まだ、「組子」という仕事があまり知られていなかったために、「組子さんという女性が社長ですか?」と、人からよく聞かれたそうです。
父が商売を始めた当時は車も機械もなく、「仕上がった建具はリヤカーやバスでよく運んだちゃ。さすがに満員バスのときは大変だったよ。」
「夜なべ仕事して疲れてカンナクズの上でよく寝た。結構カンナクズのベッドは暖かいんだよ。」「若くて信用が無かったから、銀行からお金を借りることができず材木の支払いが出来なかった。当時面倒見てくれた人のありがたさは忘れんちゃ。」「機械場の柱に小さなあんたをヒモでくくりつけて、 どこかへ行かないようにしながら仕事しとった。いまなら虐待しているっていわれるだろうね。」
私が小学生の頃、笑いながら話してくれる父と母の姿を見て、私は無意識のうちに跡を継ぐ決意をしていました。
父が44歳の時、転機が訪れます。年に1度開催されている全国建具展示会(1977年)で、最高賞である「内閣総理大臣賞」を受賞したのです。
北陸では初の受賞だったこともあり、「組子のタニハタ」の名前は業界に一挙に広がりました。
すると、仕事が急増、売上がどんどん増えました。「地の利」もあったと思います。富山県は全国でも持ち家率が常にトップクラス。人々の住宅部材を見る目が非常に肥えている土地柄です。品質にこだわりを持つお客様に鍛えられて、技術はさらに向上していきました。
「とにかく、作るのが追いつかなくて大変だったよ。全国から弟子入りしたいという若い人も多くて、断るのに大変だった」と、語っていた父。(当店を卒業した組子職人は20人います。) 社員も20人ほどの会社になりながらも、商品を売り込む営業マンは一人もいませんでした。すべて口コミで仕事をとるシステムに、ほかの業者からも羨ましがられたものでした。
「建具屋は建築・住宅業界では、いつも見下されている存在。組子職人でも、やればできるんだ、という気概を見せたかった。」父の跡を継いだいまになって、その気持ち、気概がわかるようになりました。
そんな当社でしたが、1990年の中頃から売上が急激に落ち始めます。当時、東京で就職していた私はそんな事情を聞き帰郷し、家を継ぐ決心をしました。売上が大きく落ちた理由は、バブル経済が崩壊したこと、住宅の着工数が減少したことも挙げられますが、一番の理由は、若い世代の「和室離れ」でした。北陸の家と言えば和室中心の部屋づくりが主でした。それが、「フローリングにカーテン、ソファ」という洋間中心の家づくりに変わっていったのです。
ハウスメーカーや工務店側も、高価な和室を作るよりも安価な洋間のほうが売りやすいこともあり、需要側、供給側の思惑が一致して、あっという間に新築住宅から和室が無くなりました。和風の組子建具を手がけていた当社は、その影響をまともに受けることになったのです。昔からの取引先や同業者も、この頃、数多く倒産しました。営業マンがいない当社のような会社は、売上回復の目処が全く立ちません。「とにかく売上の回復をしなくては…」そんな状況から「洋風の間仕切組子」を試作。それを持って、私は全国を回ったのです。
ホームセンター、百貨店、家具店、園芸店、通販業者、知名度の高い小売店、ハウスメーカーを飛び込み営業で回りました。急激に落ちた売上を回復するには、大手との取引しかないと思ったからです。
朝3時。車に試作品を載せて、ひとりで富山を出発。東京の有力店を飛び込みで回ったあと、夜中の1 時に帰宅。翌日、また、大阪へ朝3時に出発してと。このような生活を毎週、3年ほどつづけました。
いま考えると、異常な行動だったと自分でも思います。父が築きあげた会社を絶対に潰せないという強い思いが、そんな行動をさせたのかもしれません。
体を壊しかけた私は、いつまでも無理な営業はつづけられないと思い、2000年12月、ホームページを制作してインターネットでの販売に力を入れ始めました。いまでこそ建材製品のネット販売はあたりまえになりましたが、当時はまだインターネットの黎明期。「ネットで組子製品なんて売れる訳ないよ。」と、いろいろな取引先から言われたのをいまでも思い出します。
実際に、当初は売上が上がらない日々が続きましたが、2002年頃から徐々にネットでも数字が上がり始めました。2007年10月には「経済産業省IT経営100選 最優秀企業賞」をいただくまでになりました。
昔からの「技術力」を核に、「IT」や「デザイン」のスキルを磨き、「売り先」「売り方」「作り方」を変えて、経営形態を徐々に変化させていきました。
日本で「組子」の知名度が上がってくると、海外から組子製品の引き合いも少しずつ増えていきました。
2012年、タニハタで初めての海外展示会「ニューヨーク国際家具展」に出展。予想以上の反響に驚くと同時に、当社の足りない部分も痛感。帰国後すぐに、英語サイトや海外向け英文カタログを制作し、海外展開を開始しました。
リッツカールトン、アップル、ツイッター、エルメス、スターバックスなど外資系企業の施設への納入実績も増えて、海外から直接、富山まで工場見学に来られることも増えました。
また、イタリア、ドイツ、フランス、韓国、香港、シンガポールなど、海外へ行く機会も増えました。私ひとりが海外に行くのではなく、職人達とともに日本を出で、広い視野で日本のものづくりの方向性について考え、いろいろなことを試しつづけました。そんな動きをしているうちに、海外向けの売上は全体の2割近くを占めるようになりました。
いまでは、日本や海外の多くのお客様からご注文をいただき、組子製品をご覧になった方から「日本の技術、意匠はすばらしい」「ものを大切にする心を思い出した」「こういう日本の技術は残さなくてはいけない」などのお声をいただくようになりました。
組子が売れない時期を経験してから約30年が経過し、私たちの組子づくりは、いろいろな皆さま、取引先、地域、自然のお陰で成り立っていると感じるようになりました。そして、組子づくりで得たものを少しでもお世話になった方々や地域に還元したい、と思うようになりました。
地域での組子づくり体験教室の実施など、地元への貢献に努めながら、化石燃料を使用しない、再生可能エネルギー100%の工場づくりなど、サステナブルなものづくりにも取り組んでいます。
2016年1月、タニハタで初めて「経営理念」を掲げました。それは「考えた」というよりも、私たちの体の中から自然に湧きあがってきた、という感覚のものでした。次世代の子供たちのために、日本人が長い時間をかけて培ってきた大切なものを忘れずに、気概をもって、これからも果敢に挑戦していく…そういう職人集団になりたいと願っています。